体験談 (特別投稿)(長文)

平成14年旭区祭りの時間

思えば6年前の平成8年。僕の住んでいる旭区が山車(やま)番を担当した年だ。当時、自分は中学2年生。

『山車巡行に携わる生徒の早退を認める』。三国中学校が出した特例である。1時間目の授業が終わるか終わらないかの内に、数人の友達と学校を後にし、喜び勇んで家に帰ったのを覚えている。ちなみに、その年の山車は、「桶狭間の奇襲」だった。

そして今年、平成14年。旭区、6年ぶりの山車番である。

都会で大学生活を送っている僕は、5月17日の上野発急行能登号で福井に帰郷した(後になって、この時の心境が中2のとき祭りのため早退した際に抱いた気持ちと酷似していることに気付くが、まあそんなことは置いておこう)。

5月18日


山車を見に山車小屋に行く(と言っても自宅から歩いてすぐなのだ)。旭区は、山車の担当が6年毎と間隔が長いためか、二つ山車(一つの屋台に二体の人形が乗っている)を出すという伝統を持つ。今回は『義経と弁慶出陣の場』だ。もう既に完成されており(渡り初めが終わったのだから当たり前だが)、あとは本祭りの巡行を待つのみ。実に見事な英姿である。僕の個人的な意見であるが、気に入っているのは弁慶の無骨なアゴヒゲ。

 兄が「旭区の山車写真展」なるものを企画・制作しているようだ。区民の空き倉庫をひとつ借りて、旭区が今まで曳いた山車の、現存している限りの写真からいくつかピックアップしたものを展示し、さらに、武者人形の完成する過程を写真と文章で紹介するというものだ。祭りの臨場感を再現するために、倉庫内に流れるBGMはテープに録音したお囃子。19日から21日まで開催されたこの催しは、結果的に成功だったと思う。小屋に収められた山車を見るため旭区まで足を運んでくれた観光客にとっては、区の長い歴史を知ってもらえる良い機会であったし、区民にとっては、歴史を知ってもらうだけでなく、時代を超えて繋がっている、いってみれば愛区心なるものを想起させるのに一役買ったのではないだろうか。

 多少話がずれるが、このように祭りに対して能動的に参加をすることは、とても意義深いことだと思う。慣例にない企画を練るのもその一つだろう。『頑固とは臆病ということだ((C)鴻上尚史)』。この言葉が胸に響いた。

5月19日

 前祭り。

僕の家族をはじめ、区内の老若男女が、溜まりに溜まった6年分の祭り熱を明日の本祭りに控え臨界点でギリギリに抑えている。中には臨海点を強行突破してしまった青年団の方々もおられるようだ。真っ昼間からビール片手に区内をさまよう姿は、祭りという非日常を演出するのに申し分ない。

ちなに、青年団の人たちは、武者人形完成時から本祭りまでの間、夕暮れをちょいと過ぎる時間になると、「護衛」の名のもとに山車小屋に集合する。これは、むかし町内同士があまりにも武者人形の出来栄えを競い合いすぎて、中には夜中になって他の町の武者人形を壊しに来る人間が現れたために(なんと血の気の多いことか!)、そういう輩から人形を守るために泊りがけで山車小屋を警備していたという、その名残であるらしい。現在ともなるとそんな輩は現れず、「警備」は「酒盛り」へと姿を変え継承されている。旭区の男衆は、6年ぶりの山車曳きを目前に控え、自分たちの武者人形を肴に酒を酌み交わしながら、士気を高揚させるのである。

 

5月20日


 本祭り。

 暑くもなく寒くもなく快適な朝だ。軽く朝飯を済ます。ちなみに我が家では、祭りになると、刺身、ちらし寿司、赤飯、ぜんまいの煮たの、家族の誰かが露店で買ったベビーカステラの冷え切ったやつ、お客さんをもてなしたときの料理の残りモンが、常に食卓に並べられている。特にベビーカステラ、冷えると硬くなり食感が悪い。美味い店で買ったやつは冷えてからも美味いのだが、アツアツを食いたいのならばそれをオーブントースターで軽く焼くと香ばしくてイケる。これが楽しみでわざと残すことも無いことはないのだが、そんなことは置いておこう。



8時半、法被と豆絞りを装備し、山車小屋へ向かう。もう既に男たちにより”出陣”の準備が始まっている。屋台に舵棒が取り付けられ、車軸には潤滑のための鳥もちが塗られる。朝からビールも今日は無礼講。僕が着ている法被は青色の生地に旭区と書いてあるごく普通の法被なのだが、中には今日のために特注で作ってもらった法被を着ている青年団の方も数人おり、黒い法被、黒い股引、黒い足袋、頭にはねじりにねじった鉢巻と、その渋い風貌はかなり粋である。彼らが颯爽と舵を操る姿は、もうこれは実に格好いい。

全員では無いのだがほとんどの旭区民が巡行の出発に立ち会うべく小屋の周りに集まっている(中には六年に一度しか見ない旭の人や近くの区からの見物人も)。それを見ていると、「6年前中学校から帰って家に到着したのがちょうどこのくらいの時間だった。あれから6年、あのおばちゃんもあのおばちゃんもシワが増えたなあ。あの姉ちゃんには子供が出来て、あのおんちゃんは白髪が目立ってきた。(実際は福井弁で)」などと6年という時間の長さを感じるとともに、深い感慨を覚えるのだ。これは僕だけではないだろう。もしかしたら、この区の人間は、6年周期に時を刻みながら日々の生活を送っているのかもしれない。

ひと通り準備を終え、山車をバックに囃子方と曳き手の記念撮影。それが終わると区長の簡単な挨拶があり、そしていよいよ出発だ。いざ、三国神社へ。

 まずは旭区を一周する。区内を曳く時だけは、各家から参加する正式な(?)曳き手だけではなく、普通の区民も山車を曳く。区民が一体となって屋台を操るのだ。ちなみにこの光景は、行きと帰り、計2回見られる。ここでの山車曳きは、下町の旧市街地に比べ露店が無い分楽だ。狭い路地はいくつかあるもののまだまだウォーミングアップの段階である。今回僕は初めて後ろの綱を担当させてもらった。前進はそれほど力が要らないが、前の綱より人数が少ない分後退する時はかなりの力が必要。特に坂道などは面白い。本当に自分の力で山車を曳いているような気がする。昔は前の綱だっただけにここを担当するのは嬉しい。大人として成長したような錯覚を覚える。

 そこでアクシデント発生!普通、山車曳きをする時は武者人形を電線に引っ掛けないよう専用の竹の棒で電線を上に持ち上げるのだが、まだ持ち上げていないまま山車を曳いてしまったらしく、武者人形に電線がまるで首吊り自殺者の如く引っ掛かってしまった。そして弁慶の首は下向きになり、義経と共にいざ出陣というのになんだか出陣を躊躇しているような姿に。これでは他の町内から笑われる、旭区の恥だという日本人的理由により、いったん山車小屋に戻してから急遽人形師の岩堀さんに来てもらい治療してもらう。岩堀さんの話では図体から首まで通っている支柱が折れたらしい。大人10人がかりでも折れないほど丈夫と言っていた。ちょっと首が引っ掛かっただけのように見えたのにそんなに凄い力が発生していたとは・・。支柱を交換するのは時間的にも物理的にも無理みたいで、ワイヤーで首と人形の後ろを繋いで固定するという対症療法を施してくださった。見かけは初めとほとんど変わらない。


 時間が大分削られた。奉納の時間にはなんとしてでも間に合わなければならない。気を取り直して再出発。区内を後にして下町に向かう。旧森田銀行を過ぎたあたりから露店が道路脇に並び始め、通行人の量も増加する。ここからいよいよ熟練した舵取りの技術が必要になってくる。山車とのちょっとした接触が事故を招く恐れがあるからだ。かといって安全運転していたのでは面白くない。たとえ真っ直ぐの道でも右へ左へと舵を取り、「ピピッー!」と危険を警告する笛が鳴り響く中、「はいオモォー!!」と拡声器での怒声のような指示を仰ぎながら蛇行運転していくのが、山車曳きの面白さである。その指示を聞き、前と後ろの舵担当の人たちは「そーれッ!!」とタイミングよく舵棒を操る。それに伴い車輪が道路を削る「ギギギギィ!!」という音、その間絶え間無く続くお囃子が、人々の聴覚に迫力を訴えるのだ。気が付けば、天津甘栗やベビーカステラの甘い匂い、焼きそばやお好み焼きのソースの焦げる匂いが辺りを漂う。嗅覚が祭りの雰囲気に酔いしれる。

昼、三国神社に到着する。ウチの区は六番山車で、七番山車の大石内蔵助(山車人形保存会)が旭に続いて到着したのをみると、時間は間に合ったのだろう。神社前に七基が勢ぞろいする時、観光客にとっては全ての山車を見られる絶好の機会であり、曳き手と囃子方にとっては休憩時間である。あらかじめ手配された弁当と大量に用意されたビールがそれぞれに配られる。道路脇にあった駐車場で町内の友人やおじさんたちと弁当を食っていたら小雨が降り始めてきた。屋根が無いので仕方なくそのまま食べていたら、隣の家のおじさんが「ウチの車庫使ってください」と雨宿り場を提供してくれた。非常にありがたい。感謝である。

 1時半、雨は止み、山車の奉納も終え出発だ。神社を離れる時になるといつも旭区は大量の酒まんじゅうを屋台の上から撒く。「6年間お待たせいたしました!」という意味なのか、「6年後またお会いいたしましょう」という意味なのか、理由は知らない。ただでさえ混雑している場所なのに、まんじゅうを撒き始めると更に賑わいが増してくる。見物客に向かって三国名物酒まんじゅうを景気良く振舞う光景は実にめでたい。これを読んでいる方で酒まんじゅう好きの方、2008年5月20日13時30分前後に三国神社前に来てください。おそらく1個ないし2個、図々しい方は3個もらえます。

 山車はその後、行きと同じ道を通り「メンズショップにし」の前で一旦休憩。なんでも前がつかえていて進めないらしい。山車曳きの“渋滞”である。休憩になるといつの間にかビールが各自に配られる。そして喫煙率がすごく高い。屋台の前の舵棒には長いストローがついた小さい樽桶が吊るされており、そこには日本酒が入っている。舵棒担当の人が威勢良く舵を取れるように設置されたものだろう。僕の弟(前の綱を担当している中3の坊主)を呼んで「カルピスが入っているから飲んでみ」と騙して飲ませたところ、「ウエーッ」と舌を出しながら「だますなや」と言っていた。こんなに簡単に騙されるとは。大の大人が舵を取りながらカルピス飲んでるわけねえだろ、弟よ。

 本当に前がつかえているらしく、進んでは休憩、進んでは休憩の繰り返し。それにしても今年は露店の数が少ない。やはり露店がひしめく中を歩かないと祭りという気がしない。不景気の弊害がここにも表れている。

旧森田銀行前も通過し、これから先は駅前に出るまで静かな路地が続く。静かではあるが、非常に曲がりくねっており道幅も狭い。前進する速度と微妙な角度の舵とりが上手く揃わなければたちまち民家に接触してしまうだろう。拡声器で舵を指揮する人のセンスが求められる。休憩になるとすぐにビールが配られるのでついつい飲んでしまう。酒はそれほど強くない僕は、平時なら缶ビール2本でベロベロのはずだけど、体を動かして発散しているためか、祭りという非日常に身を置いているためか、それほど酔いは回らない(といっても顔は真っ赤だが)。ちなみに弁慶の首だが、今のところ全く問題無し。

 夕方5時前。もうすぐで駅前に到着するという時に、なんと前の舵棒を友人と共にやらしてもらえることになった。やってみて思ったのは、いつ舵棒担当にまわされてもいいように全身の筋肉を強化しておこうということ。本当に力の要る仕事だ。力だけではない。後ろで曳いている人間には舵取りの指揮がコンマ数秒遅く伝わるため、彼らと同時に舵棒を動かすには、屋台下から後ろの人たちの足の動きを見て「今だ」と思った時に舵棒を動かすタイミングを掴む必要がある。そして棒を動かす時もただ左右に動かすだけでなく、前舵棒は下に押しながら、後舵棒は上に持ち上げながら、結局屋台を前に傾かせてから舵棒を動かさないと屋台はビクともしない。その分上手く動いた時、特に180度ないし360度の回転を、後の舵と力を合わせて鮮やかにやってのけた暁には、堪えられない快感が待っている。舵棒は山車曳きの華であり、山車曳きの真骨頂は舵棒にあると言っても過言じゃない。前の綱を曳いている酔っ払ったおじさんに「も~あんちゃんらひゃくてんまんてんや」と言われ喜んだ。

 夕方5時、駅前で休憩。氷川神社で弁当を食う。曳き手や囃子方は気力体力を十分に回復させる。この後、いよいよ最終到着地である我が旭町への“凱旋”が待っているからだ。ビールを一気に飲み干し景気をつける男たち。


 夕方6時、武者人形を足元からライトが照らす。屋台についている提灯や民家前の提灯にも明かりが点される。このときから三国祭りはクライマックスへと突入する。疲労を通り越した先にある快感、酒による脳の麻痺、速いテンポが血を騒がせる戻り囃子、薄明かりの中に浮かぶ幻想的な武者人形山車、そして拍手を送ってくれる見物客、それらが渾然一体となって曳き手は『覚醒』し、見物客は『酔いしれる』のだ。

三国郵便局前まで行く途中、舵の指揮を伝える拡声器から「岩堀さんに拍手―!!」という声が響いた。ふと横を見ると人形師岩堀さんの家があり、御家族の方が見物している。曳き手からは感謝の意を込めて大きな拍手が。岩堀さんは思わず照れ笑い。

 

その後、山車は順調に旭町まで辿り着く。「旭、無事奉納をしてきました」といった心境だ。帰り山車を待っていた区民も一緒に山車を曳く。ふと気付いたのだが、2,3軒ごとに家の2階の窓のあたりにライトが設置されていて、そこから強烈な明かりが路地を照らしている。ちょうど町内全体が演劇の舞台になったような感じだ。これは何故か分からないが異様に興奮した。士気を高揚させ祭りを盛り上げるというのが目的なのであればこのアイデアは間違いなく成功である。後で聞いたのだがあのランプは青年団が設置したらしい。いやはや実にニクイ。そのうちにいつのまにか「ワッショイ!」の掛け声が始まる。一段と激しくなるお囃子。時折車輪をきしませながら「せーの」で舵をとる男衆。まさに今、6年で一番旭町が賑わっている瞬間なのだ。

祭りは最高潮を迎える。いつもなら町内を何往復もして「もう一回いくぞー!」と男たちがなかなか小屋に収めたがらない(とても名残惜しいからだ)という光景が見られるのだが、今年は区長命令で一往復しかしなかった。血気盛んな若衆たちにとっては物足りないだろうが、ダラダラやってもしょうがないという考えも一理有ると思う。そして最後はみんなで万歳と拍手をして祭りは終わる。小屋に山車を納め「ごくろうさーん」と言いながら各自家に帰る。この後「見物人」として祭りに繰り出す体力のある人もいる。

再び6年という長い月日が旭区を待っている。次の山車番は平成20年。目指せ舵棒!!



 この写真は21日夕方、旭町内を撮ったもの。昨日まさにここは非日常であった・・・・